美しい筈の月





8 呼び名




この日もあかねは、学校から帰るとそのまま詩紋と二人で泰明のもとに向かった。
あかねがあれこれと泰明に話しかけると、最初のうちは泰明もうんうんと頷いていたが、
そのうちに心ここにあらずといった感じで落ち着かない様子を見せ始めた。
そんなにつまらない話を続けてしまったかしら、と少し落ち込んでいると、
泰明の隣に座っていた詩紋と目が合った。
詩紋は泰明に気付かれないように小さく首をすくめた後、仕方ないよといったふうに笑って見せてくれた。
「お茶冷めちゃったから、淹れ直してくるね。
 詩紋くん、お台所借りていいよね?」
一人で勝手に気まずくなって、席を立ってしまった。





詩紋はあかねがお茶を淹れなおしに台所に消えたのを見届けると、
ソファの泰明の隣に、深く腰掛けなおした。
「泰明さんにね、お願いがあるんだ」
「詩紋には世話になっている。
 私に出来ることなら何でもしよう」
泰明は表情を変えることなく言った。
「そういうことじゃないんだ。
 あかねちゃんのこと」
「神子がどうかしたか」
「あのね・・・」
意を決して、泰明の方を見た。
「あのね・・・『神子』って呼ぶのをもうやめてあげて欲しいんだ。
 だってほら、龍神の神子の役目はもう終わったでしょ」

少しの間沈黙が流れた後、泰明はうなづいた。
「それで少しでも悲しまなくなるのなら」
気休めに過ぎないことは分かっている。
もしかしたら、泰明が自ら呼び方を変えるはずなどないから、
誰かが訂正したのだろうと、あかねが気付いてしまう可能性は十分考えられる。
それでも。
「僕、今ちょっと嬉しいです。
 泰明さんが僕と同じように、今あかねちゃんが悲しんでいるのを何とかしてあげたいって思っていてくれて」
泰明は意外そうな顔をするけれど、気にせず続けた。
「あかねちゃんが龍神の神子になって、京に行って、
 僕が八葉としてあかねちゃんとそれまでよりずっと分かり合えたのは
 本当に嬉しいことだったんだ。
 でもそれだけじゃないよね。
 僕は地の朱雀に選ばれたから、天の朱雀のイノリ君と仲良くなれた。
 同じように他の八葉とだって、絆は出来ているはずだよね」
「・・・」
「あかねちゃんが繋いでくれた、大切な大切な絆なんだ。
 だからね、例え龍神からの使命が終わったって、
 みんなの力になりたいし、こうやってこの世界で泰明さんに会えて、今は嬉しい。
 どっちが大切とか、誰を一番とか、選びたくないんだ」
そこまで言うと、急に恥ずかしくなってしまった。
「詩紋は・・・強いのだな」
ずっと黙っていた泰明がぽつりと言った。
「そんな事無いですよ」
「思ったことを素直に言葉に出来るのも、強さだ」
泰明の口から出た言葉とは思えなかった。
僕はただ、この世界でもう一度泰明に会えたことに感謝した。





あかねは台所に行ったものの、詩紋の話し声が聞こえてくると、
詩紋と泰明が何を話しているのか気になって、台所の入り口で立ち止まってしまった。
あの二人が一体どんな会話をするんだろう。
盗み聞きはいけない、と思いつつも、ついつい聞き耳を立ててしまう。
でも聞こえてきたのは、私が考える以上に思い言葉だった。
私のことを『神子』と呼ばないでほしい、と聞こえてきた時は、
その場に座り込みたくなった。
詩紋くんにそんな気を使わせてしまうのはもう嫌なのに。
その後の言葉を聞くと、もっと私は自分がなさけなくなった。
詩紋くんの、その深い優しさと強さを前にして、私に何が出来るっていうの。
涙が止まらない。
卑屈になってしまいそうな気持ちを必死に支えようと、
私は壁にもたれて泣いた。
こんなに涙が止まらないのはあの日以来かもしれないと思いながら、
それでも制服の袖で目を押さえるのをやめられなかった。