嘘つきなあなたへ




 暗い緑の闇の中。

 「ねぇ、ナイトメア。あなたって悪魔なの?」
 「どうしたんだい、急に」
 「だって夢魔って夢に出てくる悪魔のことでしょう」
 「君はそう思うのかい?」
 「私の考えじゃなくって、言葉の定義よ。
  それともこの夢自体があなた、悪魔だとでも言うのかしら」
 「そんな細かい定義にこだわるとは、実に君らしいね」
 ナイトメアはにやにやと笑いながら、私の顔を見る。
 悪魔があるのか分からない所が、既に悪だと思う。


 「しかし君の場合は、悪イコール嫌いというわけではないだろう?」
 「思考を読まないで」
 「この夢が君のとって悪いものか決めるのは、君だよ。アリス」
 「悪だわ」
 「どうして」
 「自分の考えを読まれるなんて気分がいいことじゃないもの」
 「悪は取り除くべきかな?」
 「ええ、そうね。
  是非ともそうするべきだわ」
 アリスは大きく頷いた。
 「どうして欲しいんだい?
  僕が君の夢から出て行けばいいのだね」
 ナイトメアは一歩近づいて腰を少し落とし、アリスの顔を覗き込む。
 その動作が余りにも自然で、伸びてくる手をよけるのが一瞬遅れた。
 私の頬に触れる手は、見た目通り冷たい。
 今までの私だったら、叩き落とすところだけれど、
 今の私はそれすらも向こうの思う壷だということに気付いている。
 「ここの住人は嫌いかい?」
  帽子屋ファミリー、ハートの城の住人、遊園地の人々が頭をよぎって、
 私はナイトメアの言葉に頷きそうになる。
 あんな物騒な人たちとこれ以上関わるのはお断り・・・。
 そこでやっと、自分の滞在場所の人の顔が浮かぶ。
 私がユリウスと恋仲になっていることなんか、ナイトメアはとっくに気付いているに違いない。
 「誰の顔を思い浮かべているのかな」
 意地悪そうな声とは対称的に、ナイトメアの表情は深刻そうに、
 そして不機嫌そうだった。
 「言わなくても分かるくせに」
 「ああ、そうだな」
 ますます不快そうな顔をする。
 普段の斜めに構えたような斜め上から見下ろしているような(身長差からすれば当然だけれど)
 では無くなると、途端に凄みが出る。
 

 ユリウスとは逆だ。
 あの日とは普段はいつも真剣で、ふざけたものが嫌いそうで、
   ある意味、全くひねくれていない気がする。
 でも私やエースと居る時は、悪意のない意地悪も言うし、
 おちゃらけるとまではいかないけれど、冗談にも付き合ってくれる。
 人間は本能では他人との付き合い方を分かってるんじゃないかと思えてくる。
 けれど、
 「やめろ」
 「え?」
 「そいつのことを考えるのをやめろ」
 ナイトメアは憮然と言い放った。
 「私が頭の中で誰のことを考えようと勝手じゃない」
 「時計屋のことを考えるのをやめるんだ」
 「だからどうして!」
 あとから思えばナイトメアと言い争いになったのかは、あれが初めてだったのだけれど、
 私は割と仲のいい友達の悪口を面と向かって言われて、
 無性に腹が立って言い返す時のような気持ちでナイトメアに言葉をぶつけていた。
 「私と居る時はただ私の言葉に困惑していればいい」
 小さな子供が物凄く身勝手な言い分を何の下心もなく言うように、
 彼は堂々と言った。


 私にどうして欲しいのかピンと来ない。
 「嫌よ」
 母のことを思えば父を思い出す。
 姉のことを思えば、やさしい微笑みに後ろめたくなる。
 学校の友達を思い出せば、父に私の話をする姉の姿が浮かぶ。
 元家庭教師のことを思えば、自分が惨めになってくる。
 ブラッドを思えば元家庭教師と重なって、腹が立ってくる。
 誰も悪くないのに、みんな私の仲の翳った記憶や気持ちと結びついて逃げ出したくなってしまう。
 それなのに。
 

 それなのにあの人は違う。
 時計塔のバルコニーの強い風邪に流される長い髪。
 その向こうに見える青い空と、下に広がる街並み。
 こもった冷たい塔の階段の空気。
 エースをあしらう声。
 ただ笑っている私。
 コーヒーのマグに伸ばされる手。
 早く眠りから覚めて次の日が始まればいいのに。
 「やめてくれ」
 ナイトメアは私の命令するように言う。
 「君は随分幸せなようだな。
  ここに来るまでの自分のことを忘れたのかい」
 「・・・そんなことない。
  何よ、嫉妬でもしているの。
  私が幸せそうにするのは不満なの、悪夢さん」
 「私は悪夢ではない」
 「じゃあ悪魔ね」
 ナイトメアは何も言わない。
 「随分と幼い嫉妬をするのね」
  冷たい、性格の悪い声が出て自分でも驚いた。
 「私はね、君をこの夢の中に閉じ込めておく事だって出来るんだ。
  そうしたら君は二度と時計塔の住人には会えない」
 「ナイトメア!」
  何を言い出すんだこの男は。
  返す言葉が見つからなくて、自分の足元を見つめてしまう。
 それまで私はナイトメアに怒っていたはずなのに、急に迷いが生じてしまう。
 取り繕うべきか考えてしまう。
 そんな自分が堪らなく嫌いだということも、知っているのに。
 「そんなことはしないけどね。
  冗談だ。困らせたかっただけだ」
 絶対嘘だ。
 私はもっと言い換えそうと思ったけれど、言い争って疲れたのか、
 ナイトメアの顔色はどんどん悪くなっているように見えた。
 「さぁ、君は帰っていいよ」
 手を差し伸べるべきか迷うけれど、彼はきっと拒む。
 確信のもとに、私は頷いた。
 「目を閉じて」
 ナイトメアの声が頭の中に響く。
 私は大人しく目を閉じる。
 彼といた空間よりもずっと濃い色の闇が私の方に向かってくる。
 このまま二重の夢が覚めてしまう気がして、
 きつく目を閉じた。
 「おかえり、アリス」





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